迷子な学生の旅

よろしくお願いします。日記、雑談、旅行記録を載せる予定です。

無気力にならないために考えていること

 こんにちは。れんこん天です。

 自己満足ながら書きたいと思います。

 いつ悲惨な運命に飲み込まれてしまうか分からない恐ろしい人生において、死は唯一の救済だと思いました。同時に、自分の死を悟った時、後悔するとしたら、それは人生で1番の絶望かもしれないとも思いました。では、絶望しないためにはどのように考えたらよいのでしょうか。

 まず、死に際の絶望がどのようなものかを考えてみます。自分がスーパーで美味しい食材を買った帰り道に交通事故で死んでしまったとします。普段の私の思考としては、レジ袋の中の物を食い尽くすまでは死にたくないということですが、実際その場面では、袋の中のことなど頭からはなくなるでしょう。まずは、現実にどのように動くかを考えるかもしれませんが、その後死を悟った時、これまでの人生を振り返るのではないでしょうか。未来を失ったことが悔しいという考えになったときも自分はどうしてこのような目に合うことのなったのかと過去を振り返るでしょう。

 もちろん、即死で気がついたころには極楽浄土にいるかもしれませんし、苦しみで何も考えられないまま形のないものになっているかもしれません。しかし、ここで重要なのは実際どのように感じながら死ぬのかを正確に知ることではないのです。死に際になり、自分の人生の終止符が打たれようとしているときにやっと人間は、流れゆく時の中の自分の人生を自覚し、評価するのではないか、その時に、もう過ぎ去ったと思っていた自分の過去が大切になってくるのではないかということを感じてもらいたいのです。そうすると、死に方は決められないことへの失望が薄れてきて、自分の過去と向き合い、今行動しようという気持ちが湧いてくるように感じます。例えば、死にぎわに家族がいてくれたら幸せかもしれませんが、死に際が悲惨なら残念な人生だったと思うなら、それは、単に死に際があなたにとって、人生の評価を大きく左右する一つの出来事だったからということなのではないでしょうか。別に砂漠で一人、脱水症で死んでしまい辛く後悔したとしても、人生を後悔し失望しながら死ぬことにはならないのです。そのような運の要素だけで決まるわけではありません。これまで、時間を無限と勘違いして浪費してこなかったか、自分で納得して選択したか。が重要になってくるのではないでしょうか。

 死んだ後に自分の評価云々いっても意味がない、死ぬ直前に辛いならやはり辛い人生だったのではと言われてしまいそうですが、その辛さは、日常の辛さと同じです。死ぬと、過去の辛さになるし、その苦しみを長く背負うことが無いという意味でやはり、死は救済とも思えます。自分の人生を痛感して、今までの人生間違っていた、それに気が付くことができす、気が付いたころには遅かったとなることが一番恐ろしいと感じます。

 

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。自分でも表現がうまくいっていなかったり、つっこみを入れたいが、話の流れ的に入れられなかったりしたところがあります。拙い文章にもかかわらず読んでいただけたことに感謝します。

 

 今年もよろしくお願い致します。